贖罪の日に生まれて

 エディット・シュタインは、ユダヤ民族の贖罪の日に生を受けたことを強く意識していた。彼女が1933年にカルメル会に入会した直後に、修道院長の勧めで書き始めた自叙伝『あるユダヤ人家庭の生活から』の記述の中でも、民族の罪を身代わりの羊に担わせる贖罪の日の詳細な描写が行われている。

1938年の大晦日、エディットは、身に迫るナチスのユダヤ人迫害を逃れるために、ケルンのカルメル会修道院からオランダ・エヒトの修道院へと移動した。1942年の7月にオランダ・カトリック教会の司教たちが、ナチスのユダヤ人政策を公然と批判したことに対し、ナチスは報復措置として、オランダのユダヤ人カトリック信者に対する迫害を始めた。1942年8月2日、エディットがアウシュヴィッツのガス室で生命を奪われる1週間前、ゲシュタポはエディットらユダヤ人の逮捕のためにエヒトの修道院を急襲した。そのときエディットが修道院で働いていた姉のローザに言ったのが、次の言葉だった。

「さあ行きましょう、私たちの民のために。Komm, wir gehen für unser Volk!」

このときエディットの脳裏には、ユダヤ民族の贖罪のために荒野に追い立てられる、身代わりの羊が浮かんだのではなかっただろうか。そして自分が贖罪の日に生まれたことの意味が、民のために身代わりの羊の役割を果たすのが、自分の召命だということが、はっきりと分かったのではないだろうか。ゲシュタポが修道院を襲ったとき、エディットは彼女の遺稿となる『十字架の学問』を書き終えたところだった。人類の罪を贖うためにキリストが身に受けた十字架上の死。それがエディットが自らの召命として従った道であった。

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